今日の1ページは昭和区の伊勝八幡宮。
八幡は早くから神仏習合の神であり、中世以降の流行神という認識が必要で、最初から八幡社として建てられた神社と、途中から八幡社に上書きされた神社は区別しなければならない。
区別するのは難しいのだけど、そこを見極めないとその神社の本質を見誤ることになる。
たとえば江戸時代は八幡社だったのを、もともとは式内社だったということで『延喜式』に載っている社名に戻したといったようなことがある。それはまったく根拠がないわけではなくて、すべてとは言えないけど、正当な場合もある。
元は違う神社だったのが途中で八幡社になってその後式内社とされるなどといったこともある。
あの神社が式内社を奪ったとか奪ってないとかでもめることもある。片山神社と片山八幡社などがそうだ。
伊勝八幡を式内伊副神社と主張している人がどれくらいいるかは知らないのだけど、個人的な感触としてはなくはないと思う。もしくは、伊勝八幡の近くにあったか。
ただ、一般的には失われた神社とされていて、それには何らかの根拠があるのだろうし、伊勝八幡が伊副神社であればもう少し証拠というか手がかりが残っていてもよさそうだから、やはり違うのか。
室町時代に伊勝八幡を御器所村に移した云々というのも話をややこしくしている。
この問題は、伊副神社の論社のひとつ、緑区鳴海町の熊野社のところで続きを考えることにしたい。
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