よく分からない熱田台地北部

 今日の1ページは西区の上宿山神社
 名古屋城築城前からあって、名古屋城築城にともなって移された神社は何社かある。この山神社と隣接する天神社もそうだ。
 戦国時代は那古野村とか猿屋と呼ばれていたこの場所に神社を建てたのは誰だったのか。ここに村ができたのは、那古野城築城の前だったのか後だったのか。
 熱田台地(那古野台地)の北部エリアの歴史はよく分からない部分がある。何故この地区には古墳が一基もないのか。見つかっていないだけなのか、湿地帯で古墳造営には適さなかったからなのか。縄文、弥生の遺跡も見つかっていないのではないかと思う。
 名古屋城前の古い神社としては若宮八幡などもそうなのだけど、熱田台地北部エリアにあった神社はどれも式内社ではない。平安時代以前に建てられたとされながら官社となり得なかった理由は何なのか。
 熱田台地南部の熱田から古渡、大須、新栄あたりまでの歴史はぼんやりとながら分かっているのに、それ以上北がよく分からない。名古屋城とその城下によって上書きされてしまったとしても、それだけではないような気もする。
 山神社、天神社についても、古い時代の歴史についてはほとんど何も伝わっていない。尾張氏の影が見えないところをみると、ここまでは支配区域ではなかったか。
 洲崎神社も鍵を握っていそうだけどよく分からない。
 熱田台地北部に関しては引き続き考察が必要だ。

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2件のコメント

  1. あゆち潟や湿地帯を埋め立てるための莫大な量の土砂は、いったいどこから調達したんだろうと考えこんでいます。
    遺跡や古墳ごとゴッソリ削られて使われた場所もあったんじゃないか、熱田台地や笠寺台地の海岸線に近かった場所には本来、もっと多くの古墳や遺跡があったんじゃないかと。
    比較的海から遠い熱田台地北部は真っ先に干拓が始まったはずで、削り取られて干拓用の土砂になったって可能性もありそうな気がします。

    1. >kutugenさん

       こんにちは。
       名古屋城の御深井丸は、湿地だったところを台地の高さまでかさ上げして作ったもので、お城の北から土を掘った分大きな穴が開いて池になったんですよね。
       名古屋城の北と西は湿地で防衛上安心って思ってたら、江戸時代が進むとだんだん乾いてきて危うくなっていったそうですよ。おいおい、まずいんじゃないかって話になってたみたいで。
       明治になって埋め立てられて軍の練兵場になってましたね。

       熱田の南の干潟は、堤防を築いて海をせき止めて干上がらせて陸地化したところが大半だから、土はそれほど必要なかったと思います。あれを埋め立てるとなるとそれこそ大量の土が必要だから大変でしたね。

       古墳は早い段階から崩されてたでしょうね。盗掘も当然あっただろうし。
       宮内庁は何を恐れて調査させないのか。箸墓古墳とか発掘調査をすれば必ず重要な手がかりがあるだろうに。

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