よく分からない熱田台地北部

 今日の1ページは西区の上宿山神社
 名古屋城築城前からあって、名古屋城築城にともなって移された神社は何社かある。この山神社と隣接する天神社もそうだ。
 戦国時代は那古野村とか猿屋と呼ばれていたこの場所に神社を建てたのは誰だったのか。ここに村ができたのは、那古野城築城の前だったのか後だったのか。
 熱田台地(那古野台地)の北部エリアの歴史はよく分からない部分がある。何故この地区には古墳が一基もないのか。見つかっていないだけなのか、湿地帯で古墳造営には適さなかったからなのか。縄文、弥生の遺跡も見つかっていないのではないかと思う。
 名古屋城前の古い神社としては若宮八幡などもそうなのだけど、熱田台地北部エリアにあった神社はどれも式内社ではない。平安時代以前に建てられたとされながら官社となり得なかった理由は何なのか。
 熱田台地南部の熱田から古渡、大須、新栄あたりまでの歴史はぼんやりとながら分かっているのに、それ以上北がよく分からない。名古屋城とその城下によって上書きされてしまったとしても、それだけではないような気もする。
 山神社、天神社についても、古い時代の歴史についてはほとんど何も伝わっていない。尾張氏の影が見えないところをみると、ここまでは支配区域ではなかったか。
 洲崎神社も鍵を握っていそうだけどよく分からない。
 熱田台地北部に関しては引き続き考察が必要だ。