二周目の直しは、中川区の八幡社(四女子町)。
江戸時代の農民にとっての八幡神とはどういう存在だったのだろうといつも気になる。
戦国時代、もしくはそれ以前からの流れで祀っていたとすればある程度理解もできるのだけど、江戸時代に入ってから八幡神を選択したのはどういう思いからだったのか。
天照皇大神宮・八幡大菩薩・春日大明神の三社託宣は江戸時代の庶民の間で流行ったから八幡神信仰は武士だけのものではなかったのだけど、感覚的によく分からないのが正直なところだ。
三社の徳目である正直・清浄・慈悲というものを江戸時代の庶民は本気で大事にしていたのだろうか。
八幡大菩薩の教えは、「鉄丸(てつがん)を食すと雖(いえど)も、心穢れたる人の物を受けず、銅焔(どうえん)に坐すと雖も、心濁りたる人の処に到らず」というものだった。
『八幡愚童訓』に「八幡ノ神ハ正直者ノ人の頭ヲスミカトス」とある。
現代の我々も八幡大菩薩の教えに立ち返らなければならないようだ。
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