今日の更新はなし。
神様事典【名古屋編】の三十番神について下調べをしていた。
掘り下げる余地があまりなくて、面白くない内容になりそうだ。
ひとつ思いついたのが、マイ三十番神だ。自分の好きな神様を30集めて作るマイ三十番神。やってみたらなかなか難しい。でも、面白いので、もう少し考えてみる。明日はアップできると思う。
神社検定壱級の過去問をやっているのだけど、やっぱり難しいとあらためて思う。
たとえば、歴史や神社好きの人なら菅原道真に関する問題くらいはどんなのが来てもたいてい答えられるという自信を持っていると思うけど、こんな問題が出る。
次のうち、間違っているのはどれでしょう。
1、道真公の霊を慰めるため、延喜年間(901-923)には「菅家影像」が描かれている
2、平安時代中期になると、大江匡衡が「文道の太祖、風月の本主」という詩文を捧げるなど、道真が儒教的教養や徳行に秀れていたという思想が認められ、明法道の学者としての憧憬が述べられている
3、『吾妻鏡』によると、諸社の神官の起請文は、京都においては北野で書く旨を幕府が定めていて、正直の神の信仰の発展と考えられる
4、江戸時代になると、大名の間で道真の作品『菅家文草』『菅家後集』の書写・版行なども行われ、学問の上で天神が大いに崇敬された
一読して即答できるだろうか?
こんな問題はテキストを丸暗記しただけでは正解できない。意地の悪い間違い探しでしかない。
疑わしい部分はいくつもある。「菅家影像」という言葉とか、それが描かれたのは延喜年間なのか、大江匡衡は本当に「文道の太祖、風月の本主」といったのか、この言葉は大江匡衡の言葉ではないのではないか、京都で起請文を書いたのは北野ではないかもしれないし、道真の作品のタイトルは『菅家文草』や『菅家後集』ではない可能性もある。
迷いだしたらすべてが疑わしく思えてきて答えられない。
正解は「2」なのだけど、この文章のどこが間違っているか分かるだろうか。
正解は↓
道真は律令などの法律を学ぶ明法道ではなく漢文・歴史の紀伝道の学者だった。
あー、90点は遠いなぁ。
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