今日の1ページは中区伊勢山の神明社。
江戸時代に入ってから勧請された一般的な神明社とは違っていて、ちょっとユニークな神明社だ。
伊勢の神宮から持ち出された巻物を祀ったのが始まりという由緒を持つ神明社は、名古屋ではここだけだ。全国では同じような神明社があるのだろうか。
神社の始まりというのも、我々が考えている以上に多様で、思いがけないところから始まったものもある。
神道だけが神社の始まりではなく、素朴な原始信仰や仏教、修験、民間信仰など、紆余曲折以前に始まりの多種性というものも見逃せない。ひとつの石から神社になった例もあるし、捨てられた石仏からというものもある。
社殿を持つものだけが神社かといえばそうでもなく、山を御神体としているところは拝殿だけで本殿がないところもある。山の上の磐座も神社といえなくもないし、瀧を御神体とすればそれもまた神社のようなものだ。
神社とはこうでなければならないといったものは本来なかったのかもしれない。もっと自由でゆるやかなものだった。
現在の神道は形式を重んじているけど、神道と神社は分けて考えるべきで、神社は今でももっと自由であっていいはずなのだ。
近代的なデザイナーズ社殿なんてのがあってもいいし、ビル一棟がそのまま神社でもいい。
そういう部分でいうと、寺院の方が考え方が進んでいる。
21世紀は案外保守的でつまらない。30世紀、40世紀の神社はどんな姿をしているのだろう。
変わらないことも大切だけど、変わっていくことも大切だ。
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