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畏れることの大切さ

 今日の1ページは名東区猪高町の羽白美衣龍神社
 牧野ヶ池緑地を訪れたことがある人ならその存在に気づいているかもしれないけど、わざわざ奥まで歩いていこうと思う人は少ないだろう。軽い気持ちで鳥居をくぐって歩いていったら思いがけず遠かったという人もいるだろうか。
 創建のいきさつを知れば、どうしてあんな雑木林の中にあるのか、その理由に納得する。

 それにしても、戦後まだ8年しか経ってない昭和28年に、もう森を切り開いてゴルフ場を作ろうなどと考える日本人は、どこかのんきというか立ち直りが早いというかたくましい国民だ。戦後8年で庶民はもうゴルフに興じることができるくらいの気持ちの余裕を取り戻していたのだろうか。
 それでもやはり、祟りは怖かったのだろう。そんなものあるはずがないと思っていても、実際に工事関係者が怪我をしたり病気になれば気持ち悪いのは当然だ。ダメ元で神社を建てて祀ってみるというのはある意味では自然なことといえる。

 かつての日本では、あるかないか分からない祟りという共通概念が抑止力として働いていたことは確かで、それが希薄になったことで様々な問題が深刻化したという面はある。
 神を畏れることは大切だし必要なことだ。それは宗教とは関係ない。人としての在り方の問題だ。
 恐れると畏れるは違っていて、怖がるということではなく、畏れ多く感じるということで、言葉を換えれば敬意を表すると言ってもいい。
 天を敬うことは地を敬うことであり人を敬うことだ。
 21世紀の現代でも、まだコンビニよりも神社の数の方が多いというのは、一種の救いではある。賽銭泥棒とコンビニ強盗とでは賽銭泥棒の方が悪いと思えるうちはまだ大丈夫かもしれない。

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