囲んで閉ざせ神域
今日の1ページは東区大幸の八幡社。
神社は過去においても、現在においても、未来でも、多様で自由であるべきだと私は考えている。形式にこだわって守るだけが正しさではない。歴史のある古い神社は古式を守ればいいし、新しい神社は新しいスタイルを打ち出してもいい。商売に走るのも自由だ。
だから、私などが苦言を呈す資格はないことは重々承知しているのだけど、残念だなとかもったいないなと感じる神社がたまにあって、そういう神社についてはひとこと言いたい気持ちを抑えられない。特に私が気になるのは、空気が抜けすぎている神社だ。
空気が抜けている神社という表現が伝わるかどうか分からないし、これは個人的な感覚なのかもしれないけど、扉や窓がすべて開けっ放しの部屋にいることが落ち着かないのと同じで、あまりにも閉ざされていなくて開きっぱなしの神社はどうにも落ち着かない気分になる。
玉垣なり木なりで囲めばいいというわけでもなくて、なんというか説明しづらい感覚的なものなのかもしれない。私が気にしすぎといえばそうなのだろう。
ただ、神社というのは空間だと思っていて、外界と神域を分けるために鳥居やら玉垣やらがあるわけで、やはりその境界が曖昧を通り越してないも同然となってしまうと、たとえ感覚的なことにしてもそれは問題なような気がする。
神社は神域を保って閉じていてほしい。大幸の八幡社をどうやって囲んで閉ざせばいいかは分からないのだけど。