江戸時代の農民にとっての八幡神とは

 今日の1ページは南区要町の八幡神社
 南区の南のエリアはもともと海だったところで、中世以降に陸地化して、江戸時代に入ってから干拓などで新田にしたところが多い。なので、神社もそういう歴史的な流れと無関係ではない。言い方を換えれば、中世以前に神社を建てられるようなところではなかったということだ。

 江戸時代に入って新田や村の守り神として神社を建てるとなったとき、いくつかの選択肢があった。
 伊勢の神宮にあやかって神明社にするか、地元である熱田社の神を勧請するか、稲作の神である稲荷神を祀るか、疫病除けの天王社にするか、火伏せの秋葉社にするか、といったところだったろうか。
 他にも山の神や水の神などもあるのだけど、八幡神を祀るということがどういうことだったのか、私からするとその感覚がもうひとつよく分からない。
 古くは宇佐八幡や石清水八幡のように国家鎮守や天皇守護のような性格の神だったのが、鎌倉以降は源氏の神となり、戦国は武人の神となり、そこを経て江戸時代に入ったとき、農民たちは八幡神をどんな神と捉えていたのだろう。
 尾張藩士が八幡神社を建てたという話はあまりないように思うけど、どうだったか。江戸時代が進むにつれて、武家の神から農民の神になっていったということなのだろうか。
 今の私たちが八幡神社に特別な思いを抱くことなく参拝するように、いくつかある神社の中の一種類という程度の認識だったのか。
 江戸時代の農民の八幡信仰というものがどういうものだったのか知りたいという思いがずっとある。