MENU

須佐之男社はこれで終わったか

 今日の1ページは昭和区広路町の須佐之男神社
 これで東区・千種区と、そこから移された須佐之男社はすべて終わったはずだ。と同時に、名古屋市内の須佐之男社は全部登録できたと思うのだけどどうだろう。まだ取りこぼしがあるだろうか。
 東区・千種区以外に須佐之男社は意外と少ない。江戸時代まで天王社はたくさんあっただろうに、どこかの時点で減ってしまった。明治の神仏分離令のときか、明治後半の神社合祀政策のときか、もっと後なのかは分からない。ただ、現存数が少ないことは言えると思う。津島神社もあわせるとけっこうな数になるのだけど。

 それにしても、天王社に関しては相変わらずよく分からない。牛頭天王とスサノオの関係や、過去の人々の意識に関して理解できない部分がある。たとえば江戸時代の庶民は牛頭天王の中に本当にスサノオを見ていたのかどうかといったことだ。
 あるいは、出雲の杵築大社でスサノオを祀っていることを尾張の町民が知っていたかどうかなど。
 明治の神仏分離令で天王社は須佐之男社としたか津島社としたところが多い。その区別の基準は何だったのか。境内社に津島社はたくさんあるけど境内社の須佐之男社は見たことがないかもしれない。
 牛頭天王/須佐之男と津島社/須佐之男社のことは今後とも考えていかなければいけないことのひとつだ。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次