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年老いたミヤズヒメのイメージ

 今日の1ページは緑区大高町の玉根社
 たくさんあった氷上姉子神社の摂社の中の生き残りということは、それだけ重要度が高かったということだろう。
 摂社も残ると残らないのとでは大違いで、摂社についての情報は少ない分、消えてしまうとほとんど何も残らない。記録からも記憶からも消えてしまう。
 玉根社はかつての霊根社と同一と考えていいのかどうか。常世社にも通じるものがある。

 氷上姉子神社は、熱田神宮や高蔵結御子神社などとあわせて考えるべきで、知我麻神社との関わりも深い。熱田社の関連社は難しく、全貌を理解するのは不可能に近い。とはいえ、もう少しだけでも近づきたいという思いはある。
 氷上姉子神社とはどういう神社だったのか。姉子がミヤズヒメ単独のことではなく巫女全般のことだとすれば、やはりここは女性の神社だっただろうか。
 ミヤズヒメはヤマトタケルとの恋物語が語られることがほとんどなのだけど、私の中では年老いた姿のミヤズヒメが思い浮かぶ。昔の人のことだからそんなにおばあちゃんまで生きなかったにしても、とにかく若い娘というイメージではない。
 朝苧社や松后社など、もう少しミヤズヒメの影を追うことにしたい。

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 名古屋市内の創建古き神社は、ミヤズヒメ抜きに理解できないですよね。
    私は「ミヤズヒメ」が特定の人物の名前であったのか、あるいは尾張氏の女性が掌る職または地位であったのかを考えてしまう事が多いです。
    中央政権絡みの資料以外は残っていないので、ミヤズヒメやオトヨの前後の行跡はすっぽり抜けてしまっていますからね。
    ヤマトタケルと同じく数人または数代のヒメの業績をミヤズヒメに仮託したのではと考えてしまいます。
    いずれにしろ資料が無い以上は仮説や空想の域を出ませんが(資料が無いおかげで私のような素人が稚拙な仮説や空想でも楽しめるのですが)、年代もさほど違いませんし桜神明社古墳の古名「ひめ塚」はミヤズヒメの墳墓ではないか、などと考えてしまいます。
    まあ規模の大小関係で近くの「大塚」に対しての「ひめ塚」と考えるのが妥当なのですが・・・

    • >kutugenさん

       こんにちは。
       ミヤズヒメとヤマトタケル抜きには尾張の神社は成り立たないですよね。
       どちらも創作された人物とすると、いろいろなことの説明がつかなくなってしまう。
       それに、地元にこれだけ伝承として残っているということは、単なる神話上の人物ではないはず。
       私はどちらも実在したと思ってます。もちろん、誇張や創作の部分はあるだろうけど。
       ミヤズヒメも、宮主姫という総称という考え方もできるけど、やっぱり中心となる人物はいたんだと思います。そうでないと物語として成り立たないから。
      『古事記』、『日本書紀』で、どうして尾張氏の扱いがあそこまで小さいのかというのも疑問というか怪しいですよね。天武天皇即位に貢献して、皇后が天皇の母にもなっているのに。
       せめて断夫山古墳の被葬者が判明すると、それ以外のことがわりと分かってくるんじゃないかって気もするけどどうでしょうね。

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