何故、八劔社だったのか
今日の1ページは港区土古町の八劔社。
港区は熱田社が6社あり、八劔社は土古町の1社しかない。
たとえば中川区はそれが逆転して、八劔社が8社に対して熱田社は2社となっている。
江戸時代の比率は今とは違っていたはずだけど、地域によって熱田社の別宮である八劔社の方が人気が高いことがある。これは以前からちょっと不思議に思っていた。どうして熱田社本社からではなく八劔社から勧請したのか。江戸期の人たちにとって八劔社とはどんな神を祀る神社と認識されていたのか。
最終的には神社別の統計を取って、総括したいと考えている。理由までは分からなくても地域性を示してみせることは多少なりとも意味があるのではないかと思う。
港区の印象としては、北の江戸期の干拓新田エリアは神明社が多く、明治以降に埋め立てられた新しい土地の神として熱田社から勧請したところが多いということがいえる。
明治以降、熱田社は熱田神宮と改称し、伊勢の神宮に寄せていったことで人々の認識も変わっただろう。そのあたりの心情の変化というのはよく分からないのだけど、一般庶民の感覚としても熱田神宮になって格が上がったと感じた人も少なくなかったかもしれない。
もう少し進めていくと、港区の特徴もはっきりしてくるはずだ。