今日の1ページは港区正徳町2丁目の神明社。
正徳1丁目神明社とは兄弟社のような関係なのだと思う。1丁目が二十番割の氏神で、2丁目が二十二番割の氏神になる。二十番割神明社は二十二番割神明社の分社というから、兄弟社以上の関係とも言える。
それにしても番割の実態はどんなふうだったのだろう。
明治期の地図を見る限り、集落がある場所は限られていて、すべての番割に別れて住んでいたわけではなさそうだ。集落としては固まって、それぞれが自分たちの番割の田畑で農作業をして年貢を納めていたということだろうか。
そもそも尾張藩が開発した熱田新田ではあったのだけど、途中で所有者が変わったりしたようだ。利権に関してもなかなか複雑だったようで、尾張藩があって、土地の所有者がいて、小作人がいて、藩士の役人などもいる。番割の集落に住んでいたのは農民だけだったのか、漁民とかもいたのか。
番割の氏神については本編にも少し書いたのだけど、どこかでもう一度整理し直したい。
熱田新田だけでなく、尾張国の干拓新田についての総まとめもしないといけないし、できれば新田地図と神社の対応表も作りたい。
文章だけでは説明しきれない部分もたくさんあるから、できればもっと絵図なども入れていきたいのだけど、その方法やスタイルをどうするか考えている。
とにかく利便性の高い神社サイトにすることが目標なので、そこは妥協せずにやれるだけのことはやりたいと思っている。
コメント
コメント一覧 (2件)
今昔マップの1888-1898年の地図での「○の右下に短い線が付くマーク」は、「獨立樹(独立樹)」のようですね。左側のメニューの「凡例表示」で、その時表示されている地図の凡例を見ることができます。(凡例がない地図もあるようですが)
>のみぴょんさん
こんにちは。
今昔マップの地図記号の説明があったんですね。気づいてなかった。(^^;
○の右下に短い線がつくと、現在の地図記号では広葉樹林だけど、明治時代はちょっと違いますね。
微妙な感じ。判断がつかない。
地図記号も年代によって変化していったことも初めて知りました。
どうもありがとうございます。