今日の1ページは港区七反野の神明社。
東福田新田は江戸期の神社の顔ぶれと現在の神社が一致しないという問題があるのだけど、それに加えて鬼頭景義と國常立命問題というものも浮上してきた。
何故、東福田新田でだけ國常立命がもてはやされたのか。鬼頭景義によるものだったのか違うのか。國常立命を祀っている神明社は本当に最初から神明社を称していたのかという点も気になる。
そもそも新田村の村人達は日本神話に登場する國常立命なる神の存在を知っていたのだろうか。知っていたらとしたら、どんな存在として捉えていたのだろう。
気持ちの部分は記録に残らないから想像するしかないのだけど、彼らが國常立命について何を思っていたかなんてことは想像がつかない。
江戸期の農民達が何も知らない無知だったと考えるのは間違っている。我々が思う以上に多くのことを知っていたはずで、神社や神についても現代人よりよほど知識があったのではないかと思う。特に神社に関しては生涯を通じてつき合っていくものだから、私たちのように無関心ではいられないし、関心を持てば必然的に多くを知ることになる。本は読まなくても口伝えというのは侮れない。江戸時代の人たちから見れば今の私たちの方がよほど無知に映るだろう。
知識にしても能力にしても、人が失ってしまったものは少なくない。
國常立命については今後も検討していかなければいけない対象だ。
天之御中主神が天の守り神だとすれば、國常立命は地上の守り神と考えられたのだろうか。
もしかしたら江戸期の人たちにとって國常立命は身近な存在だったのかもしれない。
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