二周目の直しは稲荷神社(古渡稲荷神社)。
尾張藩四代藩主・吉通は名君といわれながら23歳の若さで死去してしまったため、あまり知られていない。古渡稲荷がほとんど唯一の忘れ形見といっていいかもしれない。
将軍の世継ぎ問題に絡んで殺された可能性はある。もし、吉通があのままあと10年でも長生きしていたら将軍になっていたのではないか。そうなれば尾張藩や名古屋の歴史も違ったものになっていただろう。
でも、そうはならなかった。それが天意であり、必然だったということか。
宗春は直接この古渡稲荷とは関係がないけど、古渡の遊廓を認可したということで間接的に関わっているといえる。
遊女たちの多くがこの稲荷を参ったのではないだろうか。稲荷は身分に関係なく誰でも受け入れた。
中区の直しは少しずつ進んでいる。
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