今日は更新も直しもお休み。
それ以外のところで充電してきた。
神社についての考え方をだいぶあらためないといけないと最近思い始めている。
漠然と縄文時代の自然崇拝から弥生時代を経て、飛鳥時代あたりに祭祀が始まって、大化の改新以降に社殿が建てられるようになったというのが通説なのだけど、本当はそんな一方通行で一本道の流れではないかもしれない。
キーワードとしては、逆行や退化といったものだ。あるいは、劣化という言葉の方が適当かもしれない。
神社は一方的で直線的な成長や発展ということはあり得ず、長い歳月の中で必ず浮き沈みがあって、ときには断絶がある。
途中で祭神が交代したり名前が変わったりというだけではなくて、変化してしまったものを元に戻すといった動きもあっただろう。
分かりやすい例でいえば、明治になって『延喜式』神名帳時代の社名に戻した例がたくさんあるのだけど、あれなどもその一端で、根拠のないものではなかったはずだ。
神社のルーツは自然ではなく人なのではないかとも思う。自然崇拝と神祀りは必ずしも結びつかない。
神社というのは自然を直接抑えるための装置ではなく、神なり人なりを介して、祈る対象に抑えてもらおうという発想から来ている。
日本人は太陽に向かって拝んではいない。太陽神に向かって拝んでいる。
神は多面体であり、多くの名を持ち、一方でひとつの名前を多くの神が共用している。それが祭神問題を難しくさせているのだけど、神社の正体が単純ではない以上、複雑なものとして捉える必要があるし、完全には理解できないと自覚しなければいけない。
一番いけないのは分かってもいないのに分かった気になることだ。
神社は難しいことを知らなければならない。
コメント