イザナギ・イザナミを始点とする歴史観
神様事典【名古屋編】の伊弉冉神を全面改定。
イザナギのページやイザナミの本編でも書いたけど、イザナギ・イザナミは日本の父と母としてもう一度見直さないといけないと思う。すべてはここから始まっているのだ。
アマテラスを頂点とする歴史観については以前から疑問に思っていた。そうじゃないだろうという思いがずっとあった。
記紀を読むと分かるように、アマテラスは途中の神であり、自身では特に何もしていない。国生みもしていないし、国譲りにしても天孫降臨にしても、命じただけだ。
アマテラスが生んだ子が天皇になったわけでもなく、天皇の母でさえない。
アマテラスを否定するわけではなくて、アマテラスを中心とすると偏るというか、歪んでしまう気がするのだ。
イザナギ・イザナミを中心として歴史を捉え直すと、均衡が取れるように思うけどどうだろう。
天皇家がアマテラスを出発点とするならそれでいいけど、日本の歴史ということを考えるとイザナギ・イザナミを始点にすると収まりがいい。現在・過去・未来のバランスがよくなる。
そんなきっかけになればいいなと思いながらイザナギ・イザナミについて書いた。