今日の1ページは西区枇杷島の八幡社。
神明、白山と同じく1529年に創建されたと『尾張志』は書くのだけど、そういった記録が江戸時代に残っていたということだろうか。
一方で『尾張徇行記』は二十町北から江戸時代前期(慶長)に現在地に移されたと書いている。
このあたりの経緯が最後までよく分からなかった。そのことを知るためには1529年当時の枇杷島村の状況を知る必要があるのだけど、今のところそれが掴めていない。今後、どこか別のところで分かったりすることがあるかもしれないので、そこに期待したい。
あと、本編では書かなかったのだけど祭神に竹内宿禰が入っているのも気になる。
應神天皇にも仕えたとされる伝説の大臣だから八幡社で祀られることもなくはないのだけど、名古屋では稀だ。ここにも手がかりが潜んでいそうな気がする。いつどのタイミングで竹内宿禰が祀られたのか。最初からなのか途中からなのか。
西区はそれほど多くないと思ったらそうでもなくて、この八幡社で47社になった。主要な神社だけで50社を超える。不明社や屋根神様を入れると80社くらいになるかもしれない。
全国に神社は約8万社といわれているけど、あれは神社本庁に入っている神社の数で、実際は1.5倍はある。小さな社も入れたら2倍くらいになるんじゃないか。
日本全国の神社数の15万社は多いか少ないか。明治末の神社合祀政策によって全国の神社は4割が合祀されるなどして姿を消した。最盛期は30万社くらいあったんじゃないだろうか。
この圧倒的な数字はある種、日本の底力を示すもので、諸外国には決して理解できないものだろう。
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