長久手市の多度社(前熊村)と秋葉社(前熊村)を書いた。
 多度社は以前から本当に多度社なのかなと疑問に思っていたのだけど、今回あらためて調べ直してその思いを強くした。
 私が多度社の本質が見えていないだけかもしれないのだけど、天津彦根を祀るというのもよく分からない。
 そもそも前熊にはどういう人たちが暮らしていたのだろう。
 もう一つの氏神だった八劔社ではなく多度社を残したのが何故だったのかも気になる。
 立地だけのことではなかったと思うのだけど。
 長久手はもともと尾張氏が開拓した土地だったのが、途中のどこかで別の勢力が入ってきて乗っ取られた感がある。
 古い神社に神明を被せてきているのもその表れの一つだ。
 次は長久手最後の北熊の神明社で、そこで何か見えてくるものがあるかどうか。

コメント
コメント一覧 (2件)
こんにちは。いつもお疲れ様です。
水谷民彦という人物が書いた『尾張国神名帳追継考』は、長久手前熊の多度社が『尾張国内神名帳』の山田郡牟久杜天神かもしれないと言っていますね。くずし字でよく読めないのですが、簡単に抜粋すると、
従三位 牟久杜天神
此の社は愛知郡前熊村多度の杜にあり。
社の西にクモリ水という池あり。
また、その池の西に田神宮あり。
俗にクモリ神と申す。
田神宮をクモリ神と申す由なり。
牛の角を抜く者、病を免ると云ふ。
此の社にて、牛の角を奉る事あり。
また祭の日には馬を曳きて奉る。
その由詳ならず。
https://wwwb7.musetheque.jp/aichi_pref_library_archives/detail?cls=collect11&pkey=000201
>kkさん
こんにちは。
コメントありがとうございます。
これはちょっと興味深いですね。
全然知りませんでした。
前熊の多度社って、なんか不思議な感じなんです。
現地の空気感もだけど、歴史的に見てもぼんやりぼやけているというか多重写しみたいになっていて。
神明と呼ばれていた時代もあったようだし。
個人的には前熊の多度とか、大草の熊野あたりは非常に古い神社の可能性を感じます。
南の神明は地名が神門前だし。
これらのうちのどれかが牟久杜天神というもあり得る話ですね。
となると、高牟久天神とのつながりも気になってきます。
瀬戸、長久手、尾張旭、日進あたりも面白いですね。